『S』なんていう評価をしてベタ褒めしているはずなのに文章が全然褒めてないということに気付いたので慌ててフォロー。こ、こんなはずでは。

「あの頃の日本よもう一度!」と叫ぶ悪の組織『イエスタディワンスモア』の言っていることはとても共感できる。僕はその時代を生きていた生きていなかったに関わらず、ある種の憧憬を持っている。
夕暮れの町並み。曲がり角にあるおばあちゃんの経営する煙草屋。どこかの家のラジオから聞こえてくる音の割れたビートルズ。子供の笑い声。立て付けの悪いガラス戸。
憧れるものがある。
再び現実にそういった時代が訪れたとしたら、きっとイヤさ全開だ。親しげに話し掛けてくる八百屋なんて想像するだけで恐ろしい。引き篭りには買い物すら許されないというのか。その上、『あの頃の日本』にはインターネットどころかパソコン通信すら存在しないのだ! 嗚呼、どうやって生きていけば……。
しかし、映画という枠で括られた世界なら好きなだけ過去に戻れば良い。『人付き合いのうざったさ』も『衛生環境の悪さ』も僕らには何ら影響を与えない。作中で言うところの『現実の21世紀の悪臭』の対となる『あの頃の日本の悪臭』は僕らには届かない。好きなだけ過去に戻るが宜しかろうて。
この作品の上手いところは「敵の思想が共感できる」という部分にある。ガンダム等とは違って(別にガンダムのことは全く否定しません。ただ「この点においてガンダムより優れている」というだけのお話です。文脈上ガンダム否定になってるのがイヤげ)、設定レベルで共感できるのだ。我々はスペースノイドの屈辱の歴史など知ったことではないが、イエスタディワンスモアの気持ちはとてもよく判る。「空飛ぶ車の一つもないのなら、いっそ過去に戻りたい!」(まあ、僕は戻りたくありませんが)
さて。
このままではイエスタディワンスモアは視聴者の味方になってしまう。共感できる思想を持った彼らを倒す野原一家は悪者だ。
ここでもう一つ、上手い。
ありがちな展開としては「過去ばかりを振り返って生きるなんて邪道だ! 前を見なさい!」のがメジャーだが、そんな正論は鬱陶しくてやってられない。これを裏テーマとしつつ、表面的に判りやすい主張を展開する。
主人公であるしんのすけの主張はこれだ。
「昔に戻りたいとかそういったことは判らんが、とりあえず自分のご飯を作ってくれる人がいなくなると困る」
普通の大人がこんな台詞を吐いた日には「『そういったことは判らんが』じゃねえよボケ。判れ。『俺馬鹿だからよくわかんねーけど』と同じだぞ! この腐れヤンキー」となってしまうが、しんのすけはならない。
彼は幼稚園児であり、ボケであり、馬鹿だからだ。


作中において『昔の香り』を嗅いだ大人は「あの頃に帰りたい願望」が肥大し、結果『子供化した大人』になってしまう。そのことの問題点は昨日述べたが、これにはメリットがある。
子供化した大人達は、しんのすけの面倒を見てくれないのだ。
しんのすけは所詮幼稚園児→一人では生きられない→しんのすけから保護者を奪うことは罪である→よってイエスタディワンスモアは「有」「罪」(逆転裁判
僕の感情はイエスタディワンスモアの味方なのだが、僕の良識はしんのすけの味方だ。これによって二律背反に引き裂かれ、僕の心は千々に乱れるのであった。ああ萌える萌える。
そして『あの頃の日本よもう一度』思想は滅びの美学と相性が良い。すでに『夕焼け色』なのだ。よって倒される悪役と大変相性がよく、敗者の美学は強調され、もうこれまた萌える。
ということで『クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ オトナ帝国の逆襲』は大変に偉いのであって偉くて偉くて死ねる。
他の人も見て死ぬといいと思う。(了)